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五十嵐潤 物語

◆五十嵐潤物語 @
父と母は 今は離婚していて 兄弟全て母親方に 付いているが、8人兄弟(男7人 女1人)の、3男として大阪の生野区で生まれる。両親は韓国済州島から密航船で、兄2人を連れ日本国へ住み渡り大事業を成し遂げ従業員200人程を抱える会社を設立し(美容関係の製品を一貫製造)。
◆五十嵐潤物語 A
日本に上陸し、一年後に、この私 五十嵐潤(本名 李トクヒャング)を 1月1日に、この世に誕生させた(いわゆる言葉もわからない2世である)。その為 何不自由なく育てられ いわゆる『坊ちゃん育ち』である。その後 父は母国、☆済州島☆に 電気 水道 学校に寄付など 初めて手掛けた功労者でもある。そして 日本国では 新幹線の 『ひかり号』の名付け親も 私の父である。
◆五十嵐潤物語 B
しかしその陰には 決して他人が想像を絶する母の存在は 父以上に 絶大なもの、苦労を上回る父への支え 耐えがたい日本からの苦痛もあったことも ここに記しておきたい。その母は現在は京都の『宇治』に一番下の妹と暮らしている
◆五十嵐潤物語 C
幼い頃は 幼稚園は名門のカトリック系の幼稚園に 会社からの運転手が送り迎え付きで、そして小学校は韓国の学校に行き1年生で、日本国の小学校に転校させられ本人は 少し幼いながら 『無口』に急になる 必然ながら あまり友達もできない 今で云う登校拒否は決して許す厳格な父ではないため、どんどん性格が内に秘めるようになる
◆五十嵐潤物語 D
小学校も卒業し、そのまま近くの中学へ行くはずが名門校の中学へと 父の願望で 自宅だけ引っ越しして また転校同然に友達も一人も居ない中学へ行くことになる。中学3年間の間にも私の為にと 学校に徒歩30秒の所にまた引っ越しするくらい僕への期待は大きかった 母もその度大変だったろうに。その位からだろうか、会社が不景気に入り 学校が終われば兄弟でタクシーで会社に行きお手伝いをし、また自宅へ帰る日々が続く
◆五十嵐潤物語 E
後に 高校へ進学だが、目指す所は自分の思いとは裏腹に父は あの名門校 『東大』へと希望するが、所詮無理な話である。しかし受験シーズンに入り勉強し出すと学ぶ楽しさがわかり、先生に『是非 国立の高校に… 』と胸を張り相談したが先生は無言だった。当然である。結局 又 友達の一人も居ない野球で有名な近畿大学付属高校へ進学し、勉強が益々好きになり、いつも10位以内に入っていた。
◆五十嵐潤物語 F
やがて いわゆる不良仲間に入り 煙草などを覚え、学生カバンもぺしゃんこに、学ラン姿も… その頃から いつしか 幼い時から口ずさみ憧れていた『歌手』を目指すように成り 高校中にラジオに勝ち抜き(ヤングタウン)で毎週出演したり、その番組の推薦で『素人名人会』など 『スター誕生』などいろいろ参加するようになり、雑誌で東京のオーデションも受け 見事特態勢扱い合格した。17歳の頃だ。
◆五十嵐潤物語 G
合格したことを父に報告!喜んでくれるどころか猛反対で おふくろに八つ当たり… そりゃそうだ。親にすれば喉(のど)一本で険しい歌手に成らす為に ここまで苦労して転校 引っ越ししたわけじゃない… それから 暫く監禁生活が始まった… 人間 押さえられれば押さえられるほど 跳ね返したい気持ちが倍増するものだ… 学業を納め目の前で卒業と云う3月にボストンバッグ、ラジカセを持ち
◆五十嵐潤物語 H
弟達に置き手紙をして 寝台列車に飛び乗り家出してまず 東京へ… この事はおふくろだけには その事を告げ 『思うようにしなさい』と なけなしのヘソクリ1万円をくれた。レールも何も引かれていないただ希望だけ持ち 池袋(巣鴨) 新宿 六本木 赤羽 千葉 と転々と歌える飲み屋で働いた。そして いつしか目標を失っていた。大阪には戻れず京都の祇園 木屋町に移って歌える場所に働いた。その時に
◆五十嵐潤物語 I
運命を決定づける『五木ひろし一行が太秦村から貸し切りで来店』僕から歌う事になり、なんと スカウトされた。 『おまえとふたり』『幸せさがして』『ふたりの夜明け』の全盛期である。五木さんの推薦で平尾昌晃グランプリが第1回目があるからと 出場!五木さんの推薦もあり見事グランプリを頂き それから 期間はあるが クラウンから『佐藤まこと』でデビュー。中村泰士の内弟子に入り『五十嵐潤』になる。
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