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五十嵐潤 All rights reserved.
【五十嵐潤に成る前に】
テレビ、ラジオ、コンサート、ディナー、イベントetc・・・で活躍するうちにいろんな助言、声援、これ以上伸びるには・・・等々のお話が沢山舞い込んで来た。やはり一番多いアドバイスは、有名な先生に曲を・・・と云うのが一番だった。当時は、仕事の掛け持ちは、当たり前、若さもあり、仲間達も、羨ましがられるくらいだった。そしてある所から、有名な先生、又プロダクションに橋渡しをしてあげると、ありがたいお話が来た。すると、前曲2曲とも書いてくれた板東氏が、『佐藤には、誰も曲を書かさない。こいつの儲けは全部俺の物、こいつの曲はこれからも俺が書く!取れるもんならとってみな』こうきた・・・今から伸びたい俺と恩を感じてる俺が頭の中でバトルをしていた。そんな時だった。毎日掛け持ち、回りに気を使い、師匠にも恐怖心、1000人コンサートを2ヶ月後に控え、倒れてしまった。自律神経からくる狭心症と判断され、約4ヶ月の入院。でもその間事務所はキャンセルもしてくれず、病院から声も出ない人間恐怖症に陥った僕に仕事をこなさす。毎日の様に面会にファンの方から見舞いには来てくれるが、その度に発作が起き、付き添いの方が師匠に、本人死んでしまいますから、見舞い客に場所を教えないでと、お願いしたが『大丈夫
発作起きたら病院やから、見舞金だけもらっといて!病院代もバカにならんから』という。この言葉から、師匠の声も恐怖症になり、電話が掛かってくるだけでも、発作が起こった。そんなある日スポンサーが来て、『コンサートは、後2週間後やけど、辞めるか?まあ、やっても辞めても赤字やけどな』と笑った!くそったれ!!と思い無理矢理責任感だけのため、退院して電話だけで客に声を掛けて、コンサートを強行した。もちろん看護婦4人は、舞台袖で待機の前代未聞のコンサートだ。そして幕も降り、楽屋へ倒れれ込む様に横になり過呼吸・・そして師匠が大丈夫か?と声掛けるどころか、『祝儀はどこや?これで俺の面子立ったわ、ありがとう。』だけ・・
お疲れさんの一言も無かった。明けて翌日事務所へ行くと『昨日の反省会しようか?』えっ!俺は体調戻ってないのに『ちょっ!
ちょっっと!待ってください。』そのまま倒れて発作に・・・又救急車に運ばれ元の病院行きです